洗える着物 小紋 「ドリームシルエット」新柄が出来ました。
気軽に洗濯機で洗えて、扱いやすいこの小紋着物ですが、
今年の秋冬に合わせて(仕立て含めて)の掲載です。
このシリーズは組織を工夫しご家庭の洗濯機で洗えるのはもちろん、
(ネットご使用お勧めします)
しわが出来にくくさらに扱い易くなっています。
秋の観光の季節に合わせて一着如何でしょうか。
このシリーズは反物でのご購入され、お仕立ての練習にも人気です。
もちろんこの着物もフルオーダーでのお仕立てでも
使用する生地が一着分の生地の範囲内であれば、
同じ仕立代で承っております。
洗える着物 Dreamsilhouette ちりめん 花丸 黒
洗える着物 Dreamsilhouette 鹿の子桜 黒
この項目の関連:
洗える小紋 着物
洗える着物 女物
お仕立て・御誂え・測り方
着物の種類と用途-洗える着物/あらえるきもの
着物の種類と用途-小紋/こもん
京都きもの工房
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着物の文様-縁起紋/えんぎもん

吉祥紋ともいいます。
おめでたい意を表す文様の総称で、瑞祥文(ずいしょうもん)ともいいます。
多種多様の文様があり、
鶴・亀・鳳凰・麒麟・牡丹・龍・霊芝・扇面・七宝など単独のものや
宝尽くし・七福神・三友(松竹梅)・桐に鳳凰など
二種以上組み合わせたものなどがあります。
由来も様々で
神様の使いの存在を表すもの
(鶴・亀・鳳凰・麒麟・竜等)
この項目の関連:
摺り友禅男襦袢 「白山」・額裏 (昇り龍柄)
天竜 男襦袢 ・額裏(龍柄)
縁起の良い、また魔よけの動植物を描いたもの
(菖蒲紋・桃・松竹梅)
男襦袢 「伊達小紋」ブランド(菖蒲紋)
古代より伝わる紋自体に意味があるもの
(七宝・かごめ・星型等)
赤に白 / 白に赤 又はその他の色
神仏様を描いたもの
(風塵雷神・七福神・竜神・仁王様等)
高級型染め 「天竜」ブランド
形状に吉祥を見出したもの
(扇子等)
言葉を文様化したもの(判じ紋)
(鎌〇ぬ/構わぬ・ふぐと茄子/福と成す)
洗える男襦袢
その他、七転び八起きのだるまの男襦袢・額裏、
初夢で見ると縁起のいい一富士ニ鷹三なすびの男襦袢・額裏などがあります。
商品ときものQ&A
京都きもの工房
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お詫び
3日ほど前から京都きもの工房ホームページが
白紙化しBy TheWayEndという文字が表示されていたと思います。
調べてみるとこれは世界的に活動しているハッカーによって
京都きもの工房ホームページが攻撃を
受けた事が分かりました。
訪問して頂いた方にご不便をおかけし
大変申し訳ありませんでした。
現在は修復でき、正常に動いていおります。
これに懲りず、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
またこのBy TheWayEndというハッカーは
PHPを使用したホームページを攻撃しやすい
特徴があるという情報がありました。
思い当たる方はご注意下さい。
京都きもの工房
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吸汗速乾シーツ(テイジンカルキュロ/さらら小町)のご紹介

このたび寝具と言う、分野の違うものを扱うことになりました。
弊社は流通問屋ではなく、メーカー問屋という立場なので、
ほとんどの商品は仕入れではなく、自社で作っています。
(仕立など工場に依頼している部分もありますが)
またアパレルの会社とも繋がりが多々あり、
特殊素材を利用した着物や長襦袢を独自で開発しています。
(吸汗速乾 襦袢 さらら小町・光触媒での消臭効果がある色無地など)
そんな中で吸汗速乾 襦袢 さらら小町はその強い吸汗速乾力から駒絽襦袢など和装の分野だけでなく、もっと利用範囲が広がる素材ではないかと意見があり、
シーツを作る事に至りました。
さて、商品の概要ですが、
〇特徴
1.水分に触れたとたん、吸い取り肌に戻さない。
2.吸い取った水分が素早く広がり、空気中に放出。
3.吸汗速乾機能が長持ちする。
〇寸法
幅153cm×長さ240cm
〇素材
テイジンカルキュロ(ポリエステル 新素材 特殊繊維)
ということが上げられます。
なぜ、このシーツは吸汗速乾力があるか ですが、
この糸は2種類の繊維を組合わせて出来ています。
一つ目の種類の糸は芯部分を構成し、もう一種類はその周りに絡ませています。
周りに絡ませた繊維の特性はたくさんのみぞがあり、
触れた水分を強く引き込みます。
芯の部分の糸の特性は使い捨てのオムツのように吸い取った水を逃さず、
素早く広げ空気中に拡散します。
その吸水力は撥水加工されていないポリエステルの約3倍、
(撥水加工されているとほとんど吸水力はありません)
一般的な綿の約2倍というデータがあります。
このような特性から、
寝ている時、平均コップ1杯半の水分を汗として出す、
(寝る前・起きた時の水分が必要と言われますね)
その対策として、
また、被介護者の方など長時間使用される場合でもさらさらとした
肌触りが持続されるので対策としてお勧めしたいシーツです。
全く新しい分野でどれだけこの素材の特長を多くの方に知って頂けるか分かりませんが、
モニターの方々に喜んで頂けた事から、
一度ご使用頂けたら満足して頂けるものと確信しております。
(自分でも使用してとても気持ち良い!!です。
この時期気温が暑くなってきていますが清涼感があり寝苦しさもありません)
この項目の関連:
京都きもの工房
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着物まめ知識-写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく/東洲齋 寫樂/生没年不詳)は、
江戸時代の浮世絵師です。
寛政6年(1794年)に出版が開始された後、不思議な事に
確認されている錦絵作品は、約10ヶ月の期間内に集中し、
その後の消息は不明です。
当時は売れない画家だったと推測されます。
「あまりに真に描かんとてあらぬさまにかきなせしかば」と言われるように、
本来の目的であるプロマイド代りから大きく逸脱して、
肖像画の世界に入ったのが原因のようです。
確認されている中で、写楽の筆によるものと思われる作品の大首絵は、
大胆かつ巧みにデフォルメを駆使しながら、なおかつ
目の皺や鷲鼻、受け口など、その役者が持つ個性をありのままに描く役者絵です。
このことから、描かれた役者と役柄から写楽の実像を推測するべく検証がなされ、
これが現在の写楽説の主流になっています。
彼らが出演した芝居の上演時期があり、
これを元に役者絵の発表時期は4期に分けることができます。
しかし、後期に向かうほど作品における絵画的才能や版画としての品質が劣るため、
真偽に疑問が投げかけられているものが多くあります。
すべて蔦屋重三郎の店から出版されているのも特徴です。
(挿図の右下方に富士に蔦の「蔦屋」の印があります)。
第1期が寛政6年5月(28枚)、第2期が寛政6年7月・8月、
第3期が寛政6年11月・閏11月、第4期が寛政7年1月。
写楽の代表作とされるものは第1期の作品で、
後になるほど生彩を欠きます。
このほかに相撲絵などで、写楽銘の残るものもあります。
ドイツの美術研究家ユリウス・クルトが
レンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像画家と
激賞したことがきっかけになり(”Sharaku” 1910年)
大正以降、日本でも評価が高まりました。
別人説 もあり、『江戸名所図会』などで知られる考証家・斎藤月岑が
写楽の本名は阿波(蜂須賀家)の能役者・斎藤十郎兵衛で、
八丁堀在住であると書き残したのことですが(『浮世絵類考』への加筆)、
十郎兵衛の実在はなかなか分かりませんでした。
そこで「写楽」とは誰か他の有名な絵師が何らかの事情により
使用した変名ではないかという「写楽別人説」が浮上しました。
蔦屋が無名の新人の作を多く出版したことの不思議、
短期間に活動をやめてしまったのは何故かなどということが
謎を生み、別人説の候補として
浮世絵師の歌川豊国、歌舞妓堂艶鏡、葛飾北斎、喜多川歌麿、
作家の十返舎一九、俳人の谷素外など、多くの人物の名が挙げられました。
その後、近年の研究によって実際に阿波の能役者・斎藤十郎兵衛が
八丁堀に住んでいたことが明らかになり、
写楽と斎藤十郎兵衛の関連性は高いと考えられるようになってきました。
その根拠は以下の点からです。
・同じく能役者の伝記『重修猿楽伝記』にも斎藤十郎兵衛の記載があること。
・能役者の公式名簿である『猿楽分限帖』に斎藤十郎兵衛の記載があること。
・埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の
過去帳(文政3年)に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良(郎)兵衛」が
58歳で死に千住にて火葬に附されたとの記録があること。
・江戸の文化人名簿の『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に
「写楽斎 地蔵橋」との記録があること。
・浮世絵類考の写本の一つ(達磨屋伍一旧蔵本、 斎藤月岑の増補以前?)
には
「写楽は阿州の士にて 斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話なり」とあり、
栄松斎長喜は写楽と同じ蔦屋重三郎版元の浮世絵師であり、
写楽の事を知っていたとことが推測される
(長喜の作品「高島屋おひさ」には団扇に写楽の絵が描かれている)。
時代背景は、蔦屋が寛政6年に写楽の浮世絵を発刊しましたが、
今まで
「財産半減という処分を受けた後なので、蔦屋が浮世絵で大儲けを狙った」
といった解説が一般的に流布されていますが、
専門家の研究によれば蔦屋の扱っていた商品は
『投機的なリスクを伴う分野のものは一点も見当たらず』
『蔦重は定番商品の出版権を握ったうえで堅実すぎるほどの商売をしてきた』
との評価のようです。
また、当時の浮世絵版画は安価なもの
(16文、当時の約蕎麦一杯の値段)で、
一度に大きな利益を得られる商品ではありませんでした。
葛飾北斎も、この時期(寛政6年頃)まだ彼は「北斎」を名乗ってはおらず
「春朗」「宗理」の名前で活躍していました。
また、文化年間の一時期には「可候」の号を使用しています。
この項目の関連:
新商品の紹介-正絹男物額裏 浮世絵 写楽
商品ときものQ&A
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新商品の紹介-正絹男物額裏 浮世絵 写楽

新しく正絹の額裏を染めました。
男物の羽織の裏を粋に演出したい時に
強い味方になってくれるでしょう。
品質はブランドの正絹生地(もちろん国内生地)を使い、
手ぼかしと型染を京都の職人さんが行っております。
生地の寸法は
生地巾:84cm
生地長さ:2.45m
4色よりお選びいただけます。
この項目の関連:
浮世絵 男襦袢
着物の用語-額裏/がくうら
着物の用語-摺り込み染め/すりこみそめ
着物まめ知識-写楽
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着物の用語-藍型/えーがた
藍型の沖縄での言い方。
色彩を使わず藍のみで染めます。
藍型は藍の色1色に対し
紅型は華やかな色彩を使います。
この項目の関連:
着物の用語-藍型/あいがた
着物の用語-紅型/びんがた
商品ときものQ&A
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着物の用語-紅型/びんがた
琉球紅型は、沖縄を代表する伝統的な染織技法の一つ。鮮やな特徴があります。
起源は明確ではなく14世紀の紅型の裂が現存しており、
14~15世紀頃の海外貿易により中国、インド、ジャワの更紗(さらさ)等から
染色技術が伝えられたといわれます。
「紅」は色全般を指し、「型」は型絵染めの型紙を指します。
この定義をしたのは鎌倉芳太郎が最初とされ、
紅型(びんがた)と呼ばれだしたのは明治以降だとされ、
「紅型」の漢字表記が広く普及され始めたのは、昭和に入ってからです。
それまでは、地元では「カタチキ」(沖縄方言で「型を付ける」と言う意味)等と呼ばれていたそうです。
高年者向けの藍色の濃淡を同じ型で染め出すものは藍方(えーがた)です。
これは琉球藍に生地を漬けこんで染める浸け染めの技法で
藍の染液に生地を沈めて浸染します。適度の色合いになるまで何度も何度も藍に漬けられます。
琉球紅型は、王朝時代、王家や士族の礼服で、
王家の衣装は黄色、貴族は水色と色や模様の大きさで身分に応じて区別され、
一般庶民には、長寿の祝い着としてのみ着用が許されました。
紋様には、王族が「御殿型」、上級士族用は「殿内型」、士族用は「首里型」、
上級士族の師弟用は「若衆型」、子供用は「がんじ型」でした。
「那覇型」、「泊型」は庶民用あるいは貿易用。
また、王族、士族は白地か薄黄地に絵画的な柄や多彩色の大柄の縮緬か綸子の生地が、
庶民用は朧型(五色…色朧、藍と黒…藍朧)の木綿地が使われました。
その後薩摩による侵略、廃藩置県などにより、王家からの庇護を失った染屋は廃業を余儀なくされ、
多くの染屋が首里を後にし、那覇等に移り住み宮廷のために生まれた紅型は衰退しました。
以降は本土への輸出品として薩摩藩への貢納が義務付けられました。
現在古紅型と呼ばれるものはこのころの作品が多いですが、
本土の影響からか友禅とモチーフが共通したものが多いです。
ただし、鶴を赤や緑で染めたり、桜を黄色や臙脂で染めるなど色扱いは非常に奔放でした。
江戸時代は袋物などの小物用生地、明治からは着物などにも使われました。
第二次世界大戦で多くの型紙や道具が焼失し、一部の型紙等は鎌倉芳太郎により
本土へ渡り保管され、戦後、それら型紙を分けてもらい紅型復興に力を注いだのが、
王朝時代から紅型宗家として染物業に従事してきた
城間家の城間栄喜氏と知念家の知念績弘氏です。
戦後の材料不足の中、拾った日本軍の極秘地図に下絵を描き、
型紙として使用、割れたレコード盤を糊置きのヘラに、口紅を顔料のかわりに、
薬莢を糊袋の筒先に使用するなど、工夫しながら紅型の復興に勤められました。
その頃は米軍向けポストカードなどをよく染めていたとのこと。
琉球紅型の技法は、紅型の技法には、一般的な型染め、筒描き、藍染め(漬染め)があり、
型染めで特徴的なのは型の上から色を挿すのではなく、糊を置くこと。
そして柄部分の色に顔料を使い、手挿しで色を挿します。
特に両面染めの型置きは高度な技(王朝時代の衣装はほとんどが両面染め)です。
筒描きは筒書き糊引きで、フリーハンドで糊を
置いていき、その後、彩色を行う方法です。
型染は、主に衣装類を染めるときに使われ、
筒描きは、風呂敷や琉球舞踊の舞台幕に使われることが多いです。
風呂敷は、婚礼などに使われ松竹梅や牡丹、菖蒲などの模様がよく見られ、
幕は松竹梅や鶴亀を 表現したものが見られます。
紅型の柄の多くには、あまり季節感がありません。
それでも薩摩に支配されていた頃の影響か、「ハギ」や、「雪輪」等が古典に存在します。
また、「龍」や「鳳凰」などといった柄は中国の影響を受けた物と言われます。
染色技法には次のような種類があります。
朧型紅型(うぶるーがた)
染地型と白地型を用いて地色に地紋を表します。
染地型紅型
一回の糊置きで模様の彩色と地染をします。
返し型紅型
一度、白地型で染めてから、文様を糊伏せし地色を染めます。
白地型紅型
一回の糊置きで地は白く残し、模様にだけ彩色します。
筒書き
型紙を使用せず、手書きで糊を絞り出しながら柄を書いていき、その後、色を挿していく技法で、
特にウチクイ(風呂敷)、大型の幕、のれんなどにも使用される技法です。
藍方(えーがた)
琉球藍に生地を漬けこんで染める浸け染めの技法で、
藍の染液に生地を沈めて浸染します。適度の色合いになるまで何度も何度も藍に漬けられます。
※今の紅型柄は安いものはほとんど型捺染または機械捺染で、
正式な紅型とは異なるものです。
目的は低価格で製品化するため、そして扱いが便利なように洗える着物(ポリエステルなど)
で作るためなど様々です。
この項目の関連:
洗える小紋 着物
着物の用語-藍型/えーがた
着物の用語-藍型/あいがた
商品ときものQ&A
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着物まめ知識-帯の結び方/貝の口
男物の帯の結び方で多用される貝の口結び。
女物の帯結びとしても着慣れた印象として着付けに結ばれます。
着物だけでなく、浴衣にも使われます。
以下、貝の口結びをご紹介します。
1.

腰紐を締め着物の着姿を整え角帯の片方の手先を二つ折りにします。
2.

折った部分を挟みながら帯を巻いていきます。
3.

2回腰に巻きつけます。
4.

余った帯の部分ともう片方の手先をそろえます。
5.

後ろから見た状態です。
6.

手先を折った方を下にし交差します。
7.

帯の折っていない方を折った手先の方の下に通し、一度引っ張り締めます。
8.

形を整えながら広い方の手先を折った方の手先の下に通していきます。
9.

10.

形を整え、貝の口結び、完成です。
この項目の関連:
男性用帯/角帯
着物の用語-角帯/かくおび
商品ときものQ&A
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着物まめ知識-闘茶/とうちゃ
闘茶(とうちゃ)とは、中世に流行した茶の味を飲み分けて勝負を競う遊びであり、
日本では茶寄合・茶湯勝負・回茶・飲茶勝負・貢茶、
中国では茗茶・銘闘などとも言われました。
中国の唐代に始まって宋代に発展したと言われていて、
日本に伝来後は中国・日本ともにそれぞれ独自に発展しました。
茶道の原型とされ、日本において本格的に喫茶が行われるようになったのは、
鎌倉時代に入ってからのことです。
後期に入ると各地で茶樹の栽培が行われるようになりましたが、
産地間で品質に差があり最高級とされたのは京都郊外の栂尾(とがのお・京都市北西の山中)
で産出された栂尾茶で、本茶と呼ばれ、それ以外の地で産出された非茶とされました。
(後に宇治の茶の質が向上して宇治茶が栂尾茶と並んで本茶として扱われるようになりました)
最初の闘茶は現在の茶道のように格式はなく、
本茶と非茶を飲み分ける遊びとして始まりました。
しかし「群飲逸遊」と倫理面での批判や闘茶に多額の金品や土地、財産などが賭けられ、
二条河原落首では闘茶の流行が批判され、『建武式目』にも茶寄合(闘茶)禁止令が出されましたが実態は隠れて広がっていきました。
闘茶の方法は色々で、最初は本茶と非茶を2者択一で選択するもので、
最初に間違いをした者が敗者になります。
その後、複雑化していきました。
闘茶の全盛期であった南北朝時代から室町時代初期にかけて最も盛んに行われたルールが
四種十服茶(ししゅじつぷくちゃ)です。
このルールは種茶と呼ばれる3種類と客茶と呼ばれる1種類の計4種類を用い、
まず種茶を点てた3つに「一ノ茶」・「二ノ茶」・「三ノ茶」と命名して、
それぞれ試飲させて味と香りを確認させます。
次に種茶3種類からそれぞれ3つの袋、試飲に出さなかった客茶1種類から1つの袋の合計10袋の
茶袋を作り、そこからたてた10服分の茶を順不同に参加者に提供してこれを飲ませ、
10服の茶が最初に試飲した「一ノ茶」・「二ノ茶」・「三ノ茶」のうちのどれと同じものか、
または客茶であるかを回答し、その正解が最も多いものが勝者になります。
これを複数回行う場合もあり、後述の佐々木道誉の「百服茶」
(「百種茶」とは10回分の勝負を行ったもの(10服×10回=100服))で、
夜を徹することもあったとのこと。
他にも闘茶の方法は「二種四服茶」・「四季茶」・「釣茶」・「六色茶」・「系図茶」・「源氏茶」などが
ありました。
その後、15世紀中頃から闘茶は衰退します。
また村田珠光・武野紹鴎・千利休によって侘び茶が形成されていくと、
闘茶は享楽的な娯楽・賭博として茶道から排除されました。
亜流として闘茶は歌舞伎者らによって歌舞伎茶(茶歌舞伎)として愛好され続け、
侘び茶側でも茶の違いを知るための鍛錬の一環として闘茶を見直す動きは起こりました。
17世紀に作成された『千家七事式』には「茶カフキ」として取り上げられ
闘茶も茶道の一部として編入されました。
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『光厳天皇宸記』正慶元年6月5日(1332年6月28日)条に廷臣達と「飲茶勝負」を行ったことが記されています。
『太平記』には、佐々木道誉が莫大な景品を賭けて「百服茶」を開いたことが記されています。
商品ときものQ&A
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